『他者への否定的な視線』は自分に返ってくる?!

これは、とあるラボの事情を聞いてるうちに

『他者への否定的な視点ってやベェな』 という知識を拾い直すお話。 (その前にラボ選びに教訓を書く)

ラボの裏表 (ラボ選び注意点)

(* 設定は一部フィクションを含みます。)

要約すると、学生時代の先輩Aさん(キラキラ若手PI(Principle Investigator, 通称ラボヘッド)) から、人材募集の連絡が来たが、Aさんラボに勤めるBさんに話を気いいたら、 Aさんがかなり病んでる疲れてると知った悲劇だったんだが。

Bさん曰く、 『Aさん、マックスやばいと色々(自主規制)なんですよ…アカデミアはまぁ、そういうのたまに聞きますけどね。 あと、論文とか全然出さないテニュア(終身雇用ポジション)のPIディスとかも、ものすごいですわ。』 ハイ、ラボ選びの時はPIと話すだけで選んじゃだめですのよ(突然の教訓)。 Aさんから話を聞いてるだけじゃ、絶っっっっっ対、わからんことだったんや、コレ。

ひどいパワハラとかそういうんでなくても 「おや?」 と思うこともある。

「中の人」に必ず話を聞くんだ。 なるべく複数の人に聞くんだぞ。

違和感は重要だ。

人を「ディスる」と呪われる

さて、Aさんの「論文書かないやつディス」を聞いた時、やばいと思ったのは、 『書かない人をディスる言葉、自分が書かなくなったら、漏れなく自分に向かうんだろうな』 ってことよ。

つまりはこれ。 https://twitter.com/philosopium/status/1581900249735778305?s=20&t=J-j-GzqFuDW8TtMF8Yy8yA

ちょうど読んでたオードリー若林氏のエッセイにも、似たようなことが書いてあった。

『他人への否定的な視線は、時間差で必ず自分に返ってきて、人生の楽しみを奪う』

と。

(これは、上の話とちょっと違う前提が入るから多少焦点ボヤけるけど) 若林氏の話は「恥ずかしくてスタバで”グランデ”と頼めない」というところから始まる。

(スタバでグランデと言えない)自意識過剰なことに対して、「誰も見てないよ」と言う人がいるがそんなことは百も承知だ。
誰も見ていないのは知っているけど、自分が見ているのだ、と書いた。 〝自分が見ている〟というのはどういうことかと言うと、「グランデとか言って気取っている自分が嫌だ」ということだ。(中略)まず自分が他人に「スターバックスでグランデとか言っちゃって気取ってんじゃねぇよ」と心の内で散々バカにしてきたことが原因なのである。

『ナナメの夕暮れ (文春文庫)』若林 正恭著

「『あんなもの』と見下して価値下げをすることで、自分を肯定したり価値を上げようとしていた」と書いている。

これを思い出した時、

『いやいや、Aさんは「他人を否定して自分を上げるようなショボい人」じゃなかろう』

と思ったが、あくまでそれは私の感想なのよね。

当人しかわからないコンプレックスや葛藤があるのかもしれない。

単に、今までのように論文を自分で書けいないことへの焦り・葛藤からくる愚痴なのかもしれない。

Aさんのことはともかく。

もしも、ふと、

『あんなもの大したことない』 『〇〇ができないなんて終わってる』

みたいな他人sageを思わずしたくなったら、

その言葉に自分が「囚われる」可能性があること、 『何でそう思っちゃうのか』を考えると、

呪いとは別の方向に行けるかもよ。

本当は、他人の目なんか気にしないで済むほどの好きなことがあれば、情熱を注いでいられれば、そもそも人をsageしたりもしないんだけどね。

自分の声ってわからなくなりがちよね。

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