私の研究生活最後のボスは学生時代からの知り合いで、出身ラボは同じではないが所謂『研究分野がすんごい近い、身近な先輩』みたいな人だった。
若くして日本で準独立ポジション(研究者向け表現:テニュアトラック)を獲り、ファーストorラストオーサーの論文を5年間でトータル5報とか出すような人だった(むろんテニュアになった)。
気軽な関係からのスタートだったので、今までのボスよりもずっと近くで解像度高くラボ運営なるものを見ることができるだろう、という下心と、このまま研究続けられるのかな、という迷いを持って、私は少しの間そのラボでお世話になった。
先輩のラボに行けたので、私はアカデミアを卒業する決断ができた。
理由はポジティブなものもネガティブなものもあるけど、今日は理由の話ではなく。
近くでラボ運営を見せてもらったら先輩は何だかしんどそうにしていて、何でなのかな、と考えていた時にふとふと思ったこと。
他人への「視線」には自分への「視線」が含まれてる
ボスは論文書きまくる人なので「論文書かないやつなんて研究者じゃない」とはっきり言って批判するタイプ。
口は悪いがそれはわかる。
そしてアカデミアあるある『なぜか論文書かないのに終身雇用のポジションを持つ学内の「謎教授たち」』。
ラボの雑談での話だが、ボスは結構な頻度で
「仕事もしない(論文も出さない)けど、テニュアになったらもうずっとここにいられるもんな。人生「アガって」ていいよね。」
と話していた。
学内の業務も「仕事ができる人」にほど皺寄せが行く仕組みに見えたし、当事者はもっと思うところがたくさんあるだろう。口は悪いがよくわかる。
でも、ある時、ふと、あ、この言葉や批判って、先輩、自分に言ってるんだな、
と思った。
先輩、多分、「書かない他人」ではなくて「書かない自分」が許せないんだろうなと。
いや、めっちゃ論文書いてるけどな…。
常に、次の予算、次の論文、次の中間報告、のことで走り続けるのが研究者なんだろうけどね。
だからこその「これまでの業績たち」なのだとすると…と考えると、ちょっと暗澹とした気持ちになった。
このラボに来て、ラボメイトが「たまにボスのあたりが強い」のでどう対処するか、とか、それでもまぁ仕方ないよね、うまくやっていこう、とかわして仕事をしていることも知った。
普通にそれなりに長く付き合ってきた友達として、そんなに心や身体を追い詰めるんなら、やめるまで行かなくても、何か緩める方法考えてほしいけどな、と思った。
めちゃくちゃ余計なお世話だから言いはしなかったし、そういうところが先輩らしくもあるから、やめないんだと思うけど。
その当時、たまたま読んだエッセイに『他人に対する否定的な視線は時間差で必ず自分に返ってくる』という話があった。
先輩の場合は「自分に許せない」ことを「他人にも許さん」って言ってたんだけど、結局、同じだなと。
他人を否定的に見ている時、もし、自分の中に「同じもの」があったら同じように否定的に見ている。
そして、必ず「同じようなもの」は見つかってしまう。
「今」たまたま見つけられないだけで。
自意識過剰なことに対して、「誰も見てないよ」と言う人がいるがそんなことは百も承知だ。
誰も見ていないのは知っているけど、自分が見ているのだ、と書いた。〝自分が見ている〟というのはどういうことかと言うと、「グランデとか言って気取っている自分が嫌だ」ということだ。こういう気持ちはどこから来るかというと、まず自分が他人に「スターバックスでグランデとか言っちゃって気取ってんじゃねぇよ」と心の内で散々バカにしてきたことが原因なのである。
「何でも〝みっともない〟と片付けて、自分は参加しなかった。そうやって他人がはしゃいでいる姿をバカにしていると、自分が我を忘れてはしゃぐことも恥ずかしくてできなくなってしまう。それが〝スタバでグランデと言えない〟原因である。 誰かに〝みっともない〟と思われることが、怖くて仕方がないのである。 そうなると、自分が好きなことも、他人の目が気になっておもいっきり楽しむことができなくなってしまう。 それが行き着く先は「あれ? 生きてて全然楽しくない」である。 他人への否定的な視線は、時間差で必ず自分に返ってきて、人生の楽しみを奪う。」
—『ナナメの夕暮れ (文春文庫)』若林正恭著
人を批判して、その時に「自分は違う」と思えれば、たしかにその一瞬、自分が少し上等な存在になった気がして楽になれるのかもしれない。
でも、黒い言葉は、やがて自分を追いかけてくる黒い影になってくる。
他人を「ジャッジする」のを何とかやめるようにしたいな、と思った。

